元禄創業|あみ清 数見商店|紀州湯浅の手作り味噌・醤油
あみ清は醤油発祥地の和歌山県湯浅町で元禄時代に創業。
海産業からはじまり江戸時代中期には金山寺味噌と湯浅醤油の醸造業も行うようになりました。
代々受け継がれ当代13代目。原料の見極め、仕込み、紙貼りまですべて人の手によって作られています。
老いても食べやすく健康をこころがけてらっしゃる方に、
これからも昔と変わらない養老醤をお届けします。
法燈国師と金山寺味噌〜鎌倉時代
鎌倉時代、法燈国師(諱は心地覚心)は建長元年(1249)43歳の時に紀州由良から宋に渡り6年間修行を積んだあと、径山寺で臨済宗楊岐派を授けられ帰国しました。その時に持ち帰ったのが金山寺味噌です。法燈国師は「健康になりたくば 豆を、 美になりたくば 菜根を食せ。」という言葉を残しています。豆や野菜などを使った「なめ味噌」「おかず味噌」である金山寺味噌は、当時の人々の健康増強に役立ったことでしょう。
※法燈国師は、尺八を愛好していたため、普化宗(ふけしゅう)の祖ともされています。
金山寺味噌の"たまり"が醤油に
金山寺味噌は大層人気があり、隣町であった湯浅町で商業として発展しました。さらに、金山寺味噌の製造時に出る汁「たまり」が美味しかったことから、その汁を美味くする工夫を加えて出来上がったのが醤油の発祥とされています。
元禄時代〜江戸初期
元禄時代(1688年〜)は文化・産業の発展がめざましかった時代です。新田開発や商品生産が増大し、都市生活が向上して町人文化が開花しました。このころ創業したあみ清は、当初は海産業を営んでいたことから「網=あみ」の文字が使われたようです。
一方、紀州藩(和歌山)は貧しく、農民・町民は贅沢はできなかったため茶粥などを食していたので、安価で豆や野菜を使った金山寺味噌は人々の重要なおかずとして重宝されました。
二百年にわたり受け継がれています。
あみ清がいつ頃から味噌醤油業を始めたかは記録にありませんが、最も古い資料では江戸時代文化年(1804年〜)には湯浅で金山寺味噌を「養老醤(ようろうびしお)」と名付けて販売していました。あみ清の金山寺味噌は、創業から今に至るまで頑なにその製法を守り伝え続けています。時代が変わってもその美味しさは一切変わりません。
麦や豆、野菜のみを使用している金山寺味噌は、今も昔も変わらぬ健康食です。どうぞ滋味あふれる味をご賞味くださいませ。